【ジャンボ鶴田選手のご逝去について】


 ジャンボ鶴田選手の逝去に際し、まずはご冥福をお祈りいたします。完全無欠・怪物などと称されたその強さは、今更改めて申すまでもないことです。全日本のメインイベンターとして団体を引っ張りタイトルを総なめにし高い壁であり続け、それでも誰もかなわない、本当に強いレスラーでした。ジャンボ鶴田選手の選手生活の中で最も光り輝いていた時期はいつかと考えてみると、82年周辺かなと思われます。最大のハイライトはやはり日本人初のAWA世界のベルトを奪取した時ではないでしょうか。当時は師匠の馬場・ドリーを始め、永遠のライバル天龍や強豪外国人、例えばニック・リッキー・マスカラス・チャボなど今では考えられないような顔ぶれがズラリと揃っていました。間違いなく日本プロレス界に金字塔を打ち立てましたし、事実、鶴田選手の名勝負としてこのAWA世界選手権を挙げる人は多いとことと思います。

 ただ、私は鶴田の名勝負に挙げたいのは、ズバリ天龍との7回にわたる頂上決戦です。鶴田のライバルは?の質問にはやはり天龍と答えざるを得ないですね。ハンセンでもブロディでも三沢でもないんです、何と言っても鶴田と天龍、この重みは言葉で表されないものがあります。藤波と長州の関係と同じで、舞台は違えど鶴田のレスラー生活の中で天龍源一郎は切れない人物であります。全日本の長男と二男、全日本の80年代を引っ張りつづけた2人でした。

 私は常々、全日本の栄華は80年代にありと主張しつづけてきた人間です。馬場がいて鶴龍コンビがこれからの全日本を担い、輪島がデビュー、長州・浜口・谷津が殴り込みを掛ける、カルガリーからマシーン・ヒロ斎藤、あと国際血盟軍(この人達も忘れてはいけません)。NWAのフレアーがいてAWAのニック、ハンセンがいる。さらにタッグ屋として全盛のウォリアーズ、フリーバーズ、加えて大御所ザ・ファンクス。ジュニア戦線も充実、三沢タイガー・渕・小林邦明・ヒロ斎藤・マレンコ兄弟など豪華絢爛、全日本の超黄金期でした。若手も川田や冬木を筆頭に小川・高野・高木・小橋・田上・折原、一時期は佐々木健介もいました。この状況下、頂点に立ち団体の中心である鶴田と天龍の一騎打ちは全日本の看板として幾多の名勝負を生んだわけです。

 この2人の一騎打ちは長州はじめジャパンとカルガリーの脱退後から本格化しますが、確か全7戦中、鶴田の4勝3敗と鶴田の勝ち越しで終わったと記憶しています。鶴田の敗戦はすべて反則だったと思います。一方、4勝のうち3勝は完全なピンフォール勝ちと内容ではいつも圧倒していました。まあ、この2人の対決は結果ではないのですが、そうとは言え、内容はその差を歴然と表しましたね。天龍がSWSへ移ったとき金で動いたと批判された中、鶴田に敗れたと評す人も少なくありませんでした。当時は全日本と新日本の2団体だけで、今のような共存の時代ではありませんでした。その意味でも、この2人の戦いは団体の威信をかけたものであり、壮絶な試合にならざるを得ないものだったわけです。藤波と長州、鶴田と天龍、新日本と全日本、永遠のライバルたる縮図がすべてを物語っているような気がします。

 今の全日本ファンの主流は主に「超世代」からです。SWS事件後からが殆どでしょう。でも決して卑下することはありません。鶴田と超世代軍との戦いは、80年代の鶴田とはまた別の試合です。強い鶴田と称され世間に認められてきたのは、実際のところ三沢・川田といった超世代との戦いからなんです。AWA奪取の頃は善戦マン、ジャパン軍襲来の頃は長州人気、レボリューションの頃は天龍人気と鶴田は比較的ヒール役でした。人気も当時のスターに奪われ気味でエースであってもイマイチのところがありました。三沢人気は異常過ぎましたが、それと同様に鶴田の人気も上昇し、この頃からですよ強い鶴田として認知されたのは。もちろん、超世代とも名勝負をしてきました。特に三沢との三冠戦は鶴田のベストバウト候補の1つです。個人的には当時の「超弱い田上」と世界を獲ったゴディ・ウイリアムス−鶴田・田上の世界タッグも印象にあります。

 内臓疾患で一線を退いてからは、スポット参戦を余儀なくされましたが、でも鶴田が出場というのは何だか得したような、アタリの感覚がしました。今もアメリカにいるんだろうなと思ってましたからマニラで死亡の報道があった時は、なんでマニラなの?と疑問を抱きましたがそれほど病気が思わしくなかったのですね。馬場に続き鶴田という巨星がプロレス界から消えましたが、これからも日本のプロレスを見守ってほしいものです。合掌。

(文責:大蔵栗雄)


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